足腰を街道歩きで鍛えて健康維持 第19回:中原街道(4)

街道歩きしているシーンを終活動画・自分史ビデオに入れませんか。当舎なら同行して一緒に歩きながら撮影いたします。
当舎はただ単に皆さまが人生を振り返ったり映像で記録したりするのをお手伝いするだけでなく、今後もいっそう長生きして人生を楽しんでいくために、自分史ビデオ・自分史ムービーの制作を通して "ひとつの区切り・節目" をつけていただきたいと願っています。
そして、街道歩きの記事を当舎のサイトに掲載している理由は、街道歩きが健康と長生きに効果がある方法のひとつであると同時に、人生を楽しむ方法としても素晴らしいもののひとつだと思うからです。街道歩き以外にも健康長寿や人生を楽しむ方法としてさまざまな記事を掲載しております。
もし終活動画がただ「死ぬ前の準備」や「身辺整理」のひとつだと考えるなら街道歩きの記事等の掲載は不必要ということになりますが、当舎は終活動画をそういうものとは考えておりません。
これらのことをぜひご理解いただけましたら幸いです。
さて、中原街道の最終回です。JR相模線の寒川駅から終点の中原御殿に達し、そのあと旧東海道へ出るまで、残り約10kmを歩きます。
この区間は畑などが見当たらない市街地です。相変わらず特に見どころが無いと思って歩いていたら、街道の曲がり角に「梶原景時館跡」というのがありました(上の写真)。
一之宮天満宮という小さな社(やしろ)のある一角で、ここが館の跡だそうです。
勘違いしそうな名称ですが天満宮が一之宮なのではなく、相模国一之宮の寒川神社が近くにある関係でこのあたり一帯が一之宮という地名で、そこにある天満宮ということです。
歴史には全然詳しくないのですが、「鎌倉殿の13人」を見て梶原景時のことを知りました。
「へえ、あの景時の。」と感慨深いです。
この街道でようやく歴史の香りがするものが出てきました。
せっかく古い街道を歩いているのですから、昔の人と同じ道を歩いていると感じるためには、やはり昔から残っているものに接したいという思いはあります。
少し歩くともう、相模川を湘南新道で渡って平塚市に入ります。密集した住宅地の狭い道を進んでいきます。
何回か角を曲がるということから、昔の街道がいつの時代かの区画整理で消えてしまったのではないかと思われます。
交番のところで最後の角を曲がると突き当りに中原小学校が見えます。そこが中原御殿の跡です。
記念碑や案内看板があります(下の写真)。

この案内看板によると、御殿が造られたのは慶長元(1596)年とも言われますが諸説あり。
寛永19(1642)年に修復された記録があり、明暦3(1657)年に早くも引き払われたとのことです。
街道の名前が今も残っている割りには、御殿が建っていた期間は随分短いですね。
ところで、なぜ「平塚御殿」ではなく「中原御殿」なのかがずっと気になっていました。
中原という地名が元々それほど知られていたのかという疑問もあります。
このあと、それが段々と自分なりに見えてきました。
中原小学校から旧東海道へ出るため、住宅地の狭い道路を真っすぐ南下していくと、偶然「"平塚の塚" 緑地」という場所を通りかかりました。
何だろうと思って寄ってみると、平塚市の案内看板があります。
桓武天皇の子孫が天安元(857)年にこの地で逝去して塚を築いたところ、その塚の上が平らになったため「ひらつか」と呼ばれるようになったそうで、これが平塚の地名の起こりだそうです。
地図で見てみると、平塚市平塚(住居表示の平塚1~5丁目)という地域はこの平らな塚を含む国道1号や旧東海道の周辺にあり、平塚宿のまさに中心部で、中原とは少し離れています。
一方、中原という地域を見ると、現在は中原1~3丁目という地名がありますが、中原小学校を含む中原御殿の周辺は御殿1~4丁目という住居表示で、ここも当然、元は中原に含まれていたでしょう。
もしかすると、昔はその周辺も含めてもっと広範囲に中原と呼ばれていたかも知れません。
そして昔は平塚市というくくりもなかったので、中原は平塚とは単純に別の村であり、「平塚御殿」などという命名はあり得ないのでしょう。
中原街道には小杉御殿・下川井御殿もあったそうですが、小杉もつい最近のタワマン開発以前は地味でしたし、明治時代の六ケ村合併の折に小杉村の名称は存続せず「中原街道があるので中原村」という取って付けた村名になったことからも(第1回参照)、周辺を吸収合併するほどの村ではなかったと考えられます。
知名度と関係なく、小杉村にあれば小杉御殿、下川井村にあれば下川井御殿、中原村にあれば中原御殿。ただそういうことなのでしょうね。
余談ですが、"平塚の塚" 緑地は日蓮宗・要法寺の敷地の一角にも見えますが、この要法寺の敷地は北条泰時の次男・泰知の屋敷だったとか。鎌倉幕府を批判して追われた日蓮上人ですが、龍ノ口法難の話(斬首される寸前に光の玉が飛んできて刀が折れ、生き延びたという伝説)を聞いた泰知が日蓮上人に帰依したのがご縁とのこと。
「へえ、あの泰時の次男」などと興味を持つことができるのも「鎌倉殿の13人」効果ですね。
この街道は歩き始める前から「見どころがない」と思い続けていましたが、最終回で俄然、歴史上の見どころがありました。
最後にもうひとつ写真を。
どこで昼食を食べるか、これも街道歩きで大事な楽しみです。
いろいろ調べて見つかったのが、町中華の「大陸」。平塚駅の南側にあります。
ここの中華丼の写真をサイトで見つけて、これはぜひ食べてみたいと思いました。
注文して出てきたのがこれです。サイトに出ていた写真と同じビジュアルでした。

とんでもない見た目ですが、丼が蕎麦屋で使っているのと同じで少し小ぶりなのと、アタマは野菜とあんかけのあんが多いので、食べてみるとそれほどきつくもなく完食。そのあと胃もたれもしませんでした。
歩き疲れて腹ペコの私にはうれしい盛り方で、もちろん味もうまかったです。これで600円です。
多くの町中華が共通で抱えている問題ですが、この店もご年配の店主と奥さんがやっています。少しでも長く続けてほしいですね。
他にも焼餃子が8個も入って380円など、魅力的なメニューがたくさんありますので、平塚に用事があったらぜひまた寄りたいです。
平塚の皆さま、自分史ムービー・終活動画のお問い合わせ、お申し込みをお待ちしております(笑)。
※料理の値段は本記事を書いた時点のものです。
当舎は自分史ビデオと自分史ムービー・自分史動画、終活動画と終活ビデオ・終活ムービーを同じ意味で考えております。