言葉のスパイス(19)映画『土を喰らう十二ヵ月』 死生観に関する土井善晴さんの言葉

死生観(生き方・死に方についての考え方や、それに基づいた人生観)は終活する上でも重要です。
終活とは本来、単に死ぬ前の準備や身辺整理だけでなく、この先どのように生きていきたいかを含めて人生をもう一度考えてみる機会でもあります。
終活動画・自分史ビデオ・自分史ムービーにおいても、やはり「この先はどう生きていこうか」という部分が大切ではないかと当舎は考えています。
そういったことのお考えをあらかじめお持ちの方もおられますが、ビデオの制作をとおして人生の歩みを振り返ったり、ビデオに入れる写真を何枚か選んだり、当舎のインタビューにお応えいただいたりしているうちに、次第に見えてくる方もいらっしゃいます。
ですので、終活動画・自分史ビデオ・自分史ムービーを制作するということは、ご自身を再発見する大事な機会にもなります。
もし当舎がそのお手伝いをできればこのうえない喜びです。
言葉のスパイス第19回は、料理研究家・土井善晴さんが映画『土を喰らう十二ヵ月』のパンフレット(冊子)のインタビュー記事で話している言葉です。
料理を通して日本人の死生観を洞察している言葉で、終活や老後の暮らし方にも関わる含蓄深い言葉だと思いました。
その言葉を引用します。関西弁の柔らかな話し言葉です。
「毎日同じことを繰り返すことが、生きるいうことですね。変化のないところに無限の発見があるんです。それは、人間の死生観を照らし合わせるというか、日本の料理の本質です」
「新しい自分を見つける、それが今を生きるいうことかな」
(映画『土を喰らう十二ヵ月』パンフレットの土井善晴氏インタビュー記事より)
この映画は、原案:水上勉「土を喰う日々 わが精進十二ヵ月」、監督:中江裕司、主演:沢田研二、2022.11.11公開です。
信州の山荘で暮らす主人公の作家・ツトム(沢田研二)の料理シーンとともに物語が展開します。
土井氏はこの映画で料理に関する部分を担当しています。
料理は小芋の網焼き、白菜漬け、わらびの味噌和え、梅干し、新たけのこ煮などの日常料理です。
野菜を収穫したり山菜・キノコを採集して料理しています。
山で暮らして畑を持っていればごく普通の食材であっても、各季節の旬のものを採れたてで料理しているので、全てがものすごく旨そうです。
釜で炊いたごはんのおこげも出てきます。毎日炊くごはんでたまたまうっかり焦がして出来たおこげでさえ「その日の旨いもの」ということなのでしょう。
料理シーンの印象が強すぎて、一度観ただけではこの映画が言おうとしていることがいまいち分かりにくいです。しかし、この土井氏の言葉ではっきり分かったように思います。
私なりに解釈すると「毎日同じような暮らしの中でも、料理・食材も自分自身も、今日が昨日と違うということは無限に見つけられる。そうして人生を楽しみながら暮らしていくことが生きるということ」と思います。
申し添えるとこの映画は「人は結局、自分ひとりで生きて死んでいくしかない」ということも言っていると思いますが、これはぞっとすることで共感しかねます。
いまは家で料理する人が減っていて、スーパーもコンビニも惣菜売り場が充実しています。
昔は当たり前だった日常料理も、現役世代では作ったことのない人が増えていますね。
単身世帯や共働きが増えるとともに毎日仕事で疲れていて、「料理するなんて暇な人がやることで、自分にはそんな余裕はない」という人も多いでしょう。
こういうことに対して、土井氏は日常料理に手間をかける必要はないという趣旨で「日常の食事はご飯と具だくさんの味噌汁、それにもし漬物があれば添えるだけで十分」という『一汁一菜』という生き方を提案しているのが興味深いです。
高級な日本料理を家で作るのは難しいですが、土井氏は日常料理に注力されていて、今回の言葉や料理観・死生観もそうした中から生まれたものと思われます。
豪華な食材を使った高級料理はお金を出せばお店で食べられるため、お金をたくさん持っていることが豊かな暮らしだと思う人もいます。
しかし一方では普通の食材でも旬のものを採れたてで食べるという豊かさ、うっかり作ってしまったおこげごはんも楽しむという豊かさ、昨日と違う今日を楽しむという豊かさがあり、そういう生き方もひとつの豊かな人生ではないかと、この映画は言おうとしていると思います。私もその考え方に共感します。
皆さまはどのようにお感じでしょうか。
当舎は自分史ビデオと自分史ムービー・自分史動画、終活動画と終活ビデオ・終活ムービーを同じ意味で考えております。