自分史動画制作を始めた理由-亡き母の出生地への旅
今回の話は、私が自分史動画を制作し始めた理由につながっている、私自身の経験談です。
亡き母の出生地を、亡くなったずっと後で初めて訪ねた旅行記をお読みください。
未知のとても遠い場所、播州赤穂
私は関西の生まれで、東海道本線(今はJR神戸線・京都線などと区間ごとに呼び方が変わっています)の沿線に住んでいました。
「汽笛一声新橋を・・・」から始まる鉄道唱歌に最寄り駅も出てくることが、子ども心にちょっと誇らしかったです。
その東海道本線の下り方面で、最も遠くまで行く電車は「播州赤穂」行きです。
赤穂浪士で有名な、あの赤穂です。
そこまでは一度も行ったことがありませんでした。
「播州」という馴染みのない地名を含めて、未知の、とても遠い場所というイメージがありました。
同時に、赤穂は母の出生地であることを小さい頃に聞いており、母はその遠い終点の地からやってきたのだと理解していました。
赤穂がどんなところなのかは母から聞いたこともなく行ったこともないまま、それから20年ほど経ち、母は病気で思いがけず亡くなってしまいました。
医師は手術で完治すると言っていて母もそのつもりで入院したのですが、術後の経過が予想外に悪く、一週間で意識がなくなりそのまま・・・。
当時の平均的な寿命よりもだいぶ短い生涯でした。
その頃私はまだ独身で、葬式のときに親戚から「お前が早く結婚しないから、孫の顔も見せられなかったな」などと、辛いことを言われたものです。
そのあと何年か経ってようやく結婚し、やがて子どもも生まれました。
このような経緯のため、妻も子どもも、母のことは遺影でしか知りません。
『知らない祖先の遺影』という記事にも書きましたが、知らない人の遺影をいくら見てもどんな人かは想像しようがなく、顔以外は何も分かりません。
お互いに会わせてあげたかった。
亡くなって遺影しかないとこうなってしまうのかと、はじめて気づいたのでした。
自分も家族も初めての赤穂旅行
子どもが大きくなった後、赤穂に一度行ってみたいと思い立ち、家族で旅行しました。
母が亡くなってから、さらに20年以上経っていました。
赤穂は兵庫県のほぼ西の端にあり、大阪駅からでも2時間弱かかります。やはり遠いところでした。
やっと播州赤穂駅にたどり着き、戸籍謄本に記載されていた出生地の住所へ。
赤穂が海に面していることは地図で分かっていましたが、実際に行ってみると海沿いに温泉旅館もあり、景観が素晴らしいところでした。
出生地は、山がちな地形の内海にある小さな船泊りから狭い路地を少し入ったところ、こじんまりとした民家が立ち並ぶ中にありました。漁村です。
あたりには農地もなく、店もないので、この環境から考えると漁業関係者の家で生まれたのではないかと思われます。
母の家は遠い昔に他の都市へ転居していたので、ここには知り合いが誰もいません。
ですので、赤穂は出生地ではあっても、故郷として連れて来てもらうことはなかったのだと思います。
鄙びた感じの海辺でベタ凪の静かな船泊りを見ていると、母はここでいったいどんな暮らしをして生きていたのか、ものすごく知りたくなりました。一緒に来たかった。
車で海岸線を少し走ると牡蠣の浜焼きが食べられる店があるので行きました。上の写真は近くの坂越漁港です。これも知らなかったことですが、このあたりは牡蠣の養殖で有名なのです。
赤穂城など赤穂浪士関係の史跡がいろいろあるうえに、素晴らしい海の景観に、温泉あり浜焼きあり。ご存知のように良質な塩の名産地でもあります。
京阪神からの手軽な旅行にはうってつけの、良い観光地です。
もっと早く知りたかったものです。
浜焼きを楽しんだあと、店の土産物売り場を覗いていてすごく懐かしいものを見つけました。
何十年も見ていなかったものですが、見たとたんに一瞬で思い出しました。
袋には「出平かれい」と書いてあります。実は名前も知りませんでした。
10cmちょっとの木っ葉ガレイを乾燥させた干物で、昔、家では親たちがたびたび食べていました。
木槌でたたいて繊維をほぐしてから火で炙り、生姜醤油につけて食べるのです。
家の近くの商店街では見たことが無かったので、どこから手に入れていたのかも謎でした。
それが、ここにあるとは・・・。
数十年を経てようやく、ひとつ謎が解けました。
後で調べて分かったのですが、これはガンゾウガレイ(ガンゾウビラメ)という魚で、播磨灘沿岸から広島県の尾道あたりまでの地域で生産・消費されている、瀬戸内の食べ物なんですね。
京阪神とは明らかに違う食文化です。
このような小さいサイズを乱獲すると資源が枯渇するので、釣りなら普通はリリースするところですが、これは小型の底引き網で根こそぎ獲るらしいです。
冬場に獲れるそうで、家では冬の寒い時期に火鉢で炙って食べていたという記憶とも合います。
「なつかしの味」と書いてあるので、昔ほど獲れなくなったのか、買って食べる人も減っているのでしょうか。
母が小さい頃からこれを食べて育ったのは間違いないでしょう。
お土産に買って帰り、家で食べてみました。少し苦い味がしました。
おそらく私も子どもの頃に食べたことはあるのだろうと思いますが、食べ慣れない人が食べてもそれほど美味しいものでもなく、子どもはなおさらです。
それで大人だけが懐かしんで食べていたのでしょう。
自分史動画があると「亡くなってしまえばそれっきり」にはならない
ともあれ、このようにして母の死後だいぶ経ってから、またいくつか母のことを知ることができました。
改めて気づいたのは、それまで漠然と母のことならだいたい知っていると考えていたのが実際は全然違って、知らないことがたくさんあったということです。
そして、赤穂での昔の暮らしぶりをたくさん聞きたかったし、母を連れてきて赤穂で映像に撮りたかった、と痛切に思いました。
そうすれば美しい景色とともに貴重な話が映像でたくさん残せたのではないかと、本当に残念でなりません。
生前の姿が写真でしか残っていないのは、何とも寂しいことです。
子どもとしてたいした恩返しもできず、申し訳ないと思いました。
母が語る言葉や笑顔、しぐさを映像に残しておけば、家族や次の世代にも母の人柄を伝えることができたはずです。
それができる方法は、唯一、映像です。
この経験を通じて、自分史動画を作ることで多くの方の大切な人生を映像として未来に残し、喜んでいただきたいと思いました。
これが、自分史動画制作を始めた理由です。
「亡くなってしまえば、それっきり」という思いを私は抱えています。
だからこそ、皆さまにも自分史動画に残すことを心からお薦めしております。
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吉川 友清
一分一厘舎代表。
映像作家、終活ライフケアプランナー・防災士・援農ボランティア。
2021年3月より自分史動画・終活動画制作専門の「My History Video」サービスを提供中。
制作・撮影・編集ほか、事業全般を担当している。